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エッセイ

素描(デッサン)

 石膏でできた像を鉛筆でデッサンしている風景を思い浮かべると、まさしく美術の勉強という感じがする。まず線で対象全体の輪郭を的確に捉え、さらに無数の線を駆使して、陰影、立体感を表現する。もし私が仮にそうしたデッサンをしたなら、最初の段階でバランスを欠いたものになるのは十分に想像できる。そして自分の描く線のいびつさに落胆するに違いない。さらに、私の走らす多くの線は、対象を真に捉えようと模索した良質なものでない。ただデッサンらしくという物まねで、無意味な線が紙を覆い尽くすような気がする。
 
 絵は好きなように描けばいい。小学校の写生会の授業ではないので、自分で好きな画材を選び、その使い方の順も、組み合わせも自由にやればいい。決まりなどない。また絵は世界の見方であって、そこには描く人の自由な解釈があっていい。しかしだ。問題はこれからだ。対象を自分なりに観察しとらえ、頭の中に、描きたいイメージが浮かんだとしよう。それを鉛筆や筆で、具現化するわけだが、これが見事にはまればいい。しかし現実は、はずれが多いのだ。自分の思惑を外れ、絵は悲惨な表現の方向に進むのだ。その時思う。基本(テクニック)があれば。特にリアルに描きたい時はなおさらだ。

 最近、シューベルトのピアノソナタを聴いている。ベートーヴェンのソナタとの違いは興味深い。シューベルトはベートーヴェンがきっかけとなり聴き始めた。その前に何冊も音楽に関する本を読んだ。ベートーヴェン、シューベルト、モーツアルト、バッハ・・・・。そして楽典もさらった。近頃、楽曲のいままで耳が心が素通りして、感じなかった部分のフレーズを感じることができるようになった。これは自分でも驚きだ。今まで見えなかった部分が少し見え、聞こえなかった部分が聞こえてきたのだ。基本に少しでも触れると、音楽はまた違った姿を現すのか?。基本はちょっと大事かなと思った。・・・だから絵が大好きで向上心の高い人は独学で多いに結構なので、勉強した方がよいと思う。新しい発見が待っているかもしれない。

 しかし僕はデッサンの勉強をしようと言う気はない。だいたい対象をリアルに描きたいとあまり思わない。好きなように描いて、思惑から外れたら、また新たに書き始めればよい。そうしているうちに自分の心の風景にピタリとはまることがある。また逆に線が時に自分の意図しない方向に向かっても、偶然、それが変に面白かったりする。だからあまり線を探さない。それでよいと思っている。仕事はもちろん、読書もしたい。歌も歌いたい。ベートーヴェンも聴きたい。うまい酒も飲みたい。これらを考えると時間もない。(かなり言い訳めいている?)

 ある著名な声楽家が語っていた。声楽を学ぶ人は、「テクニックがしっかり身に付けば、自由に音楽を表現できるようになる。問題はテクニックのなさだ」とよく思うそうだ。しかしその修得のあまり、音楽性をなおざりにすると(音楽性は後で考えようと思ってしまう)、手遅れとなり、もう歌い手とはなりえない。・・・なるほどと思う話だ。テクニックの重要性を無視する人は誰もいない。しかしどうもテクニックと感性はせめぎ合いの関係にもなりうるのかもしれない。





 このページでは、おもに絵に関してのエッセイを掲載していますが、今回はちょっと音楽について書かせていただきました。いままであまり感動しなかった曲が好きになり、急に作曲家を身近に感じた。そんな経験です。絵や文学でも時としてそういう経験ありますね。

ベートーヴェンに思う
 娘の弾くモーツァルトのピアノソナタ第11番イ長調の第一楽章を聞きながら、モーツァルトはなぜもこんなに美しい曲を作るのか、私はその調べにちょっと酔っていた。娘は現在中学1年生。彼女は弾きながら、どこまで感情を込めて良いのか迷いながら、曲と向かい合っているようだった。モーツアルトの流麗な音の流れ。人を和ませる心地よい音の響き。モーツァルトの曲をいろいろ聴いていていると、多くの人に愛される理由に、そう説明がいらないことに気づく。

 最近、娘はベートベンのピアノソナタ「悲愴」の第1楽章に取り組んでいる。もう私は彼女の練習を何十回と聴いている。この曲を最初聴いた時の驚きは、モーツァルトをはるかに上回っていた。ひどく悲しく絶望的だ。やりきれない。聞いているのがしんどい。曲の最初から最後まで人に緊張感を維持することを強いているのだ。娘も肉体的のみならず、その緊迫した音の運びに息が抜けないようで、弾き終わると、どっと疲れるようだった。この曲の中には明確な主題が、どうにもやるせない序奏に続き展開される。美しい主題にもかかわらず、モーツアルトのように流れるように美しく展開されない。時に主題が岩場に咲く美しい清楚な一輪の花のように浮かんでくるも、すぐに重たい和音に打ち消され、絶望へと駆り立てられる。主題は幾重にも変化し、そして怒りにみちた情動をともない、フォルテシモで、なんども鍵盤が叩かれる。こんなにまでも情念をぶつけてくるものなのかと言う感じ。こんな表現がベートーヴェン以前の作曲家にあったのだろうか。

 長い悲愴の一楽章には、一見、くどいような繰り返しが何度もある。時としてベートーヴェンが敬遠されるのは、この繰り返しが原因の一つかもしれない。実は私もこの繰り返しを好まなかった。しかし聴いているうちに、無駄な要素など一つも無いということに気づいた。テーマの提示の後、曲の中にまるで「絶望と救い」のような二極の表現が出現し、それはさらに対立し、絡み合い進行していく。その構成の妙に驚かされる。一見同じ繰り返しに感じるフレーズの中にも、小さな変化があり、その音の動きを追うことが面白い。ベートーヴェンは自らの激しい感情の吐露に、緻密な構成と様式を重ね合わせ、推敲を重ね、崇高な芸術を生み出していったのだと感じる。ちなみに、テレビで見たのだが、モーツアルトの楽譜は書き直した後があまりなく、ベートーヴェンは真っ黒だったらしい。

 ベートーヴェンの最後のピアノソナタは32番だ。このピアノソナタは二楽章しかなく、一楽章は、激しい曲だが、より音が選別され凝縮され、また単純化されたように感じる。緊迫感の中にも悲愴のようなやりきれなさはない。ほんのりと優しさを垣間見る。技術的には、対位法を取り入れ高度な技法を駆使しているそうだ。体力が衰え、死が近づいているにもかかわらず、ここにも常に挑戦していくベートーヴェンの姿がある。聴いていると胸が熱くなる。二楽章は驚きだ。おだやかでやさしいテーマーがゆるやかに流れる。やさしい情感に満ちている。それがいつの間にかスキップするような軽やかなリズムに変わり、その後、なんとまるでジャズを聴いているように、心地よく変化していく。いや、これは絶対ジャズだ。もうその楽しさ!苦悩から逃れ、カビくさい部屋で、ボサボサ頭の汚い身なりをしたベートーヴェンが軽くスイングしている、ちょっとマンガチックな姿が目に浮かんでしまう。(それを思うと逆にベートーヴェンが背負わされた宿命の悲しさを思ってしまう。)晩年になって、この曲!いったいどういうことだ。どうしてこんな曲が書けるのか?ベートーヴェンの厳(いか)めしさ、気むずかしさからは想像もつかない、革新性と柔軟性を感じる。

 ベートーヴェンはモーツアルトにひけをとらない、まぎれもない天才だったと思う。モーツアルトは神から授かったかのような美しいモチーフを、自然に美しく天上に響かせた作曲家。そしてベートーヴェンは神から授かったとしても、一度地上の混沌におとしいれ、そこからの再生を図って、地上へそして地中へも音を深く響かせた作曲家。そんな風にイメージしてみた。私はベートヴェンにますます惹かれていく。


 ところで、この文章、娘と女房そして会社の者に読んで聞かせたのですが、「何を言っているのかさっぱり分からない!」とさんざんでした。でもここまで書いたのだから・・・僕の強い意志で掲載させてもらいました。かんべん。





画家って?

 花瓶に活けてある花を、子どもが描いたら、詩人が描いたら、植物学者が描いたら、どんな絵を描くか。・・・絵は描く人によって、その表現が千差万別ですから、別にこの3人を選んで、違う絵を描くだろうといっても、なんの意味もないでしょう。ただ十分予想できることは、対象に対する「見方」は違うだろう、といことです。この見方とはなんでしょう?「感じ方」とも言えるでしょうか。植物学者は生物学、植物学的見地にたって、花を認識するでしょう。詩人は、情緒的、音楽的な時間の流れの中で花を感じ取るかもしれません。絵はその人の経験、知識、記憶などが深く影響します。もちろん絵は技術面でも大きく作用されます。しかし技術的な面は、絵の見方・感じ方とは別次元の問題です。描くと言うことは、その人の脳細胞に刻まれている記憶や経験が、誰の場合でも大きく関わっているという気がします。

  「対象を素直に、ありのままに描きなさい」というセリフを耳にすることがあります。しかし「ありのまま」ということはどういうことでしょうか?私たちの身の回りには、たくさんの情報があります。本、テレビ、マンガ・・・私たちは、あらゆるものに影響を受け、それをを頭にインプットしています。リンゴを例にするなら、だれでも頭の中にその姿が即浮かんでくるでしょう。マンガチックに描けば、たぶん丸を描いて、へそを描いて、ツルをチョンと描くあの姿です。まるで象形文字の絵です。これはあらゆるものに言えることです。対象物を象徴的姿で頭に蓄えています。これを払拭して、感じたままを描けるでしょうか。極めて難しい芸当です。

 絵を描くとき、もしこころを自由にして、何者にも縛られず、自分の感じたままを絵筆に託せたらどうでしょう。いろいろ感じたことを頭の中で新たに構築するのです。それは一から絵を描くこと。たぶんちょっと不思議な、斬新な、面白い、個性的な絵ができあがることでしょう。それは写真のように描かれた、一般的に言われる優れた描写の絵とは、根本的に異なる絵です。

 子供達は、徐々に知識、情報、常識を吸収し、より大人へと成長していきます。これは至極あたり前のことです。知識や情報は誰にとっても普遍的である必要があります。情報が全て独自性のものであればコミュニケーションをとることができません。しかしこれは、ものの本質を自らの目で捉えようとする行為に対しては、厄介なものです。知識や情報はある意味で固定観念です。固定観念は自由な発想の妨げになるのです。もし頭にスイッチがあり、感性モードと常識モードの切り換えが出来ればいいのですが、どだい無理な話です。そう考えていくと、絵とはもしかして、自由への、心の解放への闘いかもしれません。芸術家とは、その闘いに挑む戦士かもしれません。画家という芸術家は、自由をして「もの」の本質を捉え、そして表現するのです。本質を捉えることと同時に、よく「心の内面も表現する」ということを言われます。正直私にはわかりません。でも物の仮面を剥ぎ取って、本質を描こうとする行為の中に、またその先に、得たいの知れない何者かが待ち受けている気がしてならないのです。





 モネ 睡蓮
 今から二十数年前、たぶん学生の頃だったと思う。上野の美術館に行った。なにがきっかけで美術館へ入ったかは覚えていない。覚えていることはひとつ。モネの睡蓮を見たことだった。モネは睡蓮をたくさん描いているが、私の見たのは、絵画の書籍などでよく登場する水面が紫がかった暗めのトーンのものだった。

 印象派の巨匠の有名な絵だ。なにかすごいものを感じるかもしれない。期待を込め、すこし構えて睡蓮を眺た。輪郭のはっきりしない睡蓮。水面には空が映り込んでいるのか?水面に垂れ下がった柳の木が水面に映っているのか?別にどうという絵ではない。天気が悪い時描いたかな。夕方かな。そんなことを思いながら、しばらく絵の前にたたずんでいた。そして、見る立ち位置を変えたか、眼の焦点をばかしうつろに見たか、たぶん見方を少々変えたのだと思う。その時だ。突然、あまりきれいと思えなかった池の水が、透明度を増して、透けて見えた。そして急に睡蓮がリアリティをもって浮き上がってきた。そして暗かった水面が輝きをまし、朝の光景にも見えてきた。「あれ 目の錯覚かな」。そう思い、しばらくするとまた、元のつまらない絵に戻っていた。

 実は今、手元にモネの本がある。その中に私が学生の頃見たであろう、睡蓮の絵が挿入されていた。印刷物ではあるが、またそれを眺め、あの時の一時的な印象が蘇ってきたのだ。睡蓮の池の水面は不思議と、いろいろな顔をもっていた。柳の葉と思えたものは、水面の光との関係で、時として水中の藻や茎にも見える。色がいろいろな表情をもって訴えかけてくる。

 これは私の感じ方がちょっとトンチンカンのせいなのかもしれない。でも感じたことは仕方がない。印象派がなんであるとか、とりあえずどうでもいい。写実的な遠近法を駆使した3次元絵画との違いを、私は学生の頃もしかしたら少しだけ感じ取っていたのかもしれない。





山田雅夫著 「15分スケッチのすすめ」を読んだ。15分の限られた時間に絵を描くという題名に、惹かれた分けではない。プロフィールに著者が都市設計家、1級建築士と書かれていたからだった。
その中で、最も興味がわいたのは、次のようなことだった。

・・・・こうした要素は、スケッチでは一切省略します。
・・・・残りは「描かない」という判断をします。人間の目には、描かない部分も類推能力がはたらきますから、これでよいのです。
・・・・垂直方向にリズムをもつ造形群の関係だけに着目してみました。それ以外は、あえて描かないのです。描かないという強い意志が必要なのです。

文章のずいぶんと狭い範囲を切り抜かせてもらったので、何のことはよく分からないかもしれないが、絵における描写の省略の話だ。私たちは絵を描くとき、どうも律儀に全てを几帳面に描写しようとする。それで疲れてしまい、途中でいやになってしまうことがある。つまらないところを一生懸命描写し、疲れて大事なところで手を抜いてしまう。また全てを描写しようとして、絵全体が線だらけになって、焦点のぼけた、わけのわからない絵になってしまう。これはどうもよろしくない。そうした中、この本は絵における私たちの常識を打ち破ってくれる。自分が描きたい限られた対象、おもしろく興味をもった点、特に観察した部分、自分が描き出したいムード・・・・そうしたものを中心に構成して、省けるものは、思いっきり省いてもいいのだと教えてくれる。そうだもともと絵は自由なのだ。ところが自由にやろうといって、結局なにか常識に縛られている自分がいる。

「描かないという強い意志が必要なのです。」なにかすごい言葉だ。「描かない」というある種の描き方だ。
「描かない部分も類推能力がはたらきます」人間がものを認識するメカニズムを勉強したらどういう絵が描けるのだろう。





安野光雅著 NHK 人間講座 「絵とイマジネーション」を何度となく読みました。
その中で気になる文章をいくつか抜粋してみました。

遠近法という技術の問題というより、客観的なものの見方が問題なのだ、という言い方にすると、理解されやすくなると思います。
遠近法は、いまわたしたちが、風景写生をするようなときに役立てるもの、と思いやすいのですが、実は、見えない世界を、さも見えているかのように描き表そうとするときに、威力を発揮したのです。(このところは、大切です)。遠近法はそのために研究された幾何学だ、と考えてもいいくらいです。

わたしたちは、ものごとを、写真のように見ているのではなく、絵のように(主観的に、かなり自分の都合のいいいように)見ているのだった。そして絵はそれでよかった。

アウトラインなど、自然にない線を人間が描くとき、その線はものを識別し認識したことのあかしです。この考え方をおしすすめていくと、線とは、人間の頭がつくりあげる抽象図形の部品のようなものと考えたほうがいいでしょう。

わたしたちが、人間の顔を認識し、その顔を記憶しているのは写真のような瞬間の映像ではありません。時間的にも空間的にも、いろいろな条件の中でそれを見た記憶の総合です。だから、やはり、写真を撮るような(一時的な)デッサンよりも、漠然と認識している自分を絵として描けばいいと思っています。先に「よく見ておく」と述べたのはこのことです。


下記は安野氏の著書に関する私のいわゆる感想文です。

私たちはある対象を描くとき、本物にそっくり描くことが、上手という認識を一般的にもってきました。もっとも有名な抽象画を見るにつけ、絵の評価というものの基準にいろいろ疑問を抱くこともあります。
私たちが写実とか写生をする場合、対象を写真のように描こうとしたとすると、それははたして私たちの内部でどんなメカニズムが働いているのでしょうか。
写真は、時間と空間を切り裂き、2次元の世界にコピーします。では絵はどうでしょうか。
絵はまず人間の目を通し脳裏に焼き付ける作業の中で、過去の記憶の残像、理想の姿への投影、個人の嗜好などが、目の裏の画像作成に影響を与えます。目というレンズを通すと共に、心のフィルターも通すからです。そして筆を運ぶときは、線としては存在しない曖昧模糊とした境界線を、自らの感覚で線という形で確定させます。
絵を描くとき、対象は時間の流れと共に変化します。写真のように一瞬では切り取ることのできない時間の中での作業です。光や空気や対象物を取り巻く状況の変化がおこります。筆はある時間の一瞬を描くのであっても、安野氏が述べられている「時間的にも空間的にも、いろいろな条件の中でそれを見た記憶の総合です。」のように、写真を撮ることとは、はるかに異なったものです。
写生によく使われる遠近法について、安野氏はこう述べています。「遠近法という技術の問題というより、客観的なものの見方が問題なのだ、という言い方にすると、理解されやすくなると思います。」。「遠近法」の技術は写実の技術的習得のめやす、絵の上手下手を判定する基準のひとつとして、一般的に取り入られている気がします。しかし遠近法を技術ではなく幾何学そして「ものの見方」と捉えた場合、たとえば絵の上手下手の判断基準は、大きく変化してしまいます。
写実とは広辞林ではこう述べられています。「事実をありのままを写すこと客観描写」。しかし絵に関しては、客観描写という行為の中に、多くの主観が知らず込められてしまうということに、絵にとっての写実・写生はなんであるのか問わざる得ません。自然と込められる主観。客観と主観の狭間で、もし主観が多くの領域を占めたら、絵は「抽象画」へと少しずつ傾いていくのでしょうか。写実・写生とは、もしかしてイマジネーションの賜なのでしょか。そのイマジネーションとは実際なんなのでしょう。安野氏の小雑誌は私に多くの疑問を投げかけてくれました。





 絵と子供------
 小学校4年の娘の図工の作品が部屋の片隅の小さなテーブルの上に置かれていた。濃紺の画用紙をくり抜き、裏から折り紙を貼った、ステンドグラスを模したかのような作品だった。題材はクリスマス。自分でそのテーマーを決めたのか、小学校の教室のテーマーがクリスマスだったかは解らない。メリークリスマスの文字と抽象的な模様が質素に飾られていた。一見何でもない作品なのだが、色遣いが不思議だった。貼り付けられた折り紙が暗めの紺、青、深緑、暗めの赤、紫などの色で構成されて、明るい、華やかな反対色はまったく使われていなかった。画用紙が濃紺なので、普通黙っていればコントラストのはっきりした配色にしそうなものだが?でも華やかなクリスマスでなく、厳かな、ちょっと祈りの気持ちをこめた静かなクリスマスのイメージもあるのだ。濃紺の素地に暗く沈んだ文字が、変に魅力的だった。暗い色彩が意識的に作られたかどうかは解らない。思わず娘に「すばらしい出来映えだ」と宣ってしまった。ちなみに娘は、かなり外向的で、外で一日中遊び待っている子供だ。暗い性格の子ではない。
 絵を描いていて、暗く寂しげな絵になろうが、陽気でにぎやかな絵になろうが、どちらでもいい。暗い絵がいつか明るい絵に変わるかもしれない。暗い絵がもっと暗くなるかもしれない。どちらになってもいい。また子供の絵が、世間一般で言う「子供らしい」絵である必要はない。だいいち子供らしい絵など、どいうものか解らない。
 娘の作品をながめ、小学生の頃の自分の絵が暗く、度々、まわりから明るく描くように言われたことを思い出した。そして矯正され、無理して明るく描き終えた後、なにかわからない空しさを心に残していたことも思い出された。





私はもう一店舗のウェブマスターもしている。キッチン用品のお店だ。だから関連する料理番組、特にNHKの教育テレビにはよくチャンネルを合わせる。そういうことから、教育テレビでチャンネルを一寸止めるクセになっているので、時々気になる内容だと、そのまま見入ってしまう。今回はなんと画家の安野光雅氏の顔がアップで写っていた。前々から安野氏の講座をみたいと思っていたので(昔教育テレビで安野氏の水彩画教室が放送されていた)これは幸運とばかりに、テレビにかじりついた。放送終了後の文字案内では今回の番組は第3回となっていたので、2回半見落としたことになる。惜しいことをしたと思ったが、放映されていることを知っただけでもみっけものだとすぐに思い直した。
この番組は「NHK 人間講座」 主題は「絵とイマジネーション」。技術を教えてくれる番組ではない。ただ絵の世界、芸術の世界に対する奥深い話をしてくれるものと、番組をみてすぐに確信した。安野氏の哲学・思想にも触れられる。この人間講座にはテキストが出ているので、翌日書店ですぐに買い求めた。見落とした、2回半分の番組の内容もどうしても知りたかったのだ。

一応興味がある方のために、番組放映の予定をここに記載する。
番組「NHK 人間講座 絵とイマジネーション」 講師「安野光雅」
チャンネル「NHK 教育テレビ」 放映日「月曜日 午後10:25〜10:50(再放送あり)」
全部で8回あるようなので、まだまだ見られる。

テキストは書店で販売されている。(大きいお店でないとないかもしれない)私は2回読み直した。少々難解だ。言葉は難しくないが、どこか人を迷路に誘い込んでしまうようなそんな書き方だ。多くの示唆を含んでいるようなのだが、すぐにそれがなにか分からない。それがかえって面白い。テキストのあちらこちらに線を引いた。ここで紹介したいが、まだ放送が終了していないのでまずいと思う。興味のある方はぜひご覧あれ。





 絵を描き始めるときって、なにか特別かまえて描くかというと、そんなことはない。たとえば仕事でパソコンに向かっているとき、ふと気晴らしに目の前にあるノートに、机の上にある何気ない参考本を描写する時がある。(とても絵の対象としてに似つかわしくないものかもしれないが)。そして手元の鉛筆、消しゴムと描いていく。自分のペンの軌跡を確かめるようにゆっくり描く。いつのまにノートはにぎやかになる。時として、描く対象の描写と配置が自分でも気に入って、さらに描き進めたくなる。こういうときは、想像力が脹らみ、上に白熱電灯、古びた椅子。内装の板張りなどを描き入れてしまう。いつのまにか自分の心地よい空間ができあがる。そんな世界はたぶん自分が理想とする、こんな空間で仕事がしたいという、思いの世界である。
 ただうまくできたとき、ノートではあまりに残念だ。心地よい絵であれば額に入れて飾ることもできるからだ。だから私は、いつも身近に水彩色鉛筆とスケッチブックを置いておく。
 絵が心地よく描けたと感じたとき、それはたぶん自分の内なる世界が紙面に表れたときかなと感じる。客観的に大勢にほめられる絵になる必要はない。もちろん先の先にはそういうことがあっていいし、本格的に絵に没頭して、展覧会に出品したっていい。でも一番大事なことは自分で自分を気に入ることだ。




 

僕の大好きな画家に「安野光雅」さんがいます。その方の多くの絵本、書籍の中で特に「津和野」が好きです。その絵は水彩画で、色彩が淡く、少し荒いタッチで、色と色、形と形との境界線が曖昧な感じを受けるのですが、全体をながめると絵が引き締まって感じるのです。いろいろまねをして描いてみましたが、絵がぼやけてしまい表現できません。(プロの方なのだから、素人にはそのまねなどできるわけがない、といえばそれまでなのですが)そして遠く霞む山はびっくりするくらい単純化されているのに、神々しいまでに存在感がある。これなどは、もうお手上げです。そしてラフな感じの絵なのに、やさしい慈愛に満ちている。
僕も何回か描いていくうちにちょっとぐらい、自分の心に描いているイメージをだせるときがあると思います。それがたぶん自己満足でも全然かまわない。それが僕の絵を描く楽しみ方です。







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